現役産科医の視点

生命誕生の現場、産科医の視点から

ハンセン病と胎児標本問題

ハンセン病問題は、強制隔離、強制不妊手術、強制堕胎、胎児標本など、信じがたいような非人道的な負の歴史と考えられていますが、実は、当時の人は特に疑問を持たず、当然のこととして受け入れていた国の施策でした。

2016年、WHO(世界保健機関)は「ハンセン病の世界戦略2016-2020:ハンセン病のない世界への加速」を宣言しましたが、世界では感染が続いています。日本で新しい発症者がほとんどないのは、もう少し早い時点で人権配慮が必要であったとはいえ、過去の国や地方行政による取り組みの恩恵といえます。

 

ハンセン病は、発病すると外見で明らかになる病気ですが、今でも簡単な早期診断法はありません。未治療の保菌者と頻回に濃厚な接触をすることで、経気道的に感染するとされており、感染力が弱く、発症までの潜伏期間が長いことが、漠然とした不安を感じさせる理由になっています。

治療法が確立していない時代に、そのようなハンセン病の発症者に関わっていた医師や看護師は、むしろ使命感と勇気のある真摯な方々だったのではないかと考えられます。

 

NHK報道「ハンセン病 奪われた命 胎児標本はなぜ作られたのか」は、必ずしも正確とはいえません胎児標本問題の正しい理解のために、当時の実状を知る必要があります。

 

胎児標本・人体標本について

以下、日本解剖学会の活動報告です。

「2017-2018年度 胎児標本・人体標本についての取り扱いワーキンググループ

活動内容紹介

多くの日本の医学・歯学系の大学、学部には、胎児標本や人体標本を保有しており、教育・研究において貴重な学術的意味を持っているが、近年、社会の人体に関する考え方が変化してきており、従来までの価値観で標本として取り扱う理念を確認、検討する時期にある。

本学会はこのような背景を鑑み、これらの問題を多角的に検討し、標本(胎児・人体)の取り扱いについての一定の提言を作成する必要性が生じて来ていることを受けて、本WGの役割としては提言(ガイドライン)をまとめ、各大学の関係者を中心に伝えた上で、どのような形で公表をするのかを検討していきたい。

<http://www.anatomy.or.jp/jab-com-specimen-wg.html>  以上引用

つまり、現時点で「胎児標本・人体標本をどのように扱うべきか」について、公表されたガイドラインはないということです。

 

解剖学について、私が学生時代に聞いた忘れられない話、

「ドイツの医学部の解剖学教室には、歴代の教授の骨格標本が並んでいる。つまり、解剖学教授になるということは、将来、自分自身を献体するということであり、立派な骨標本になるために、教授退官後も食事や運動にも気を配る必要がある。もし、骨に感染病変や、骨粗しょう症による骨折があったら恥ずかしいぢゃないか」

そのような時代に、人体発生学や先天異常を研究する教室においては、妊娠週数別の標準胎児標本や、先天異常の胎児標本も熱心に収集されていました。

 

胎児イラスト、妊娠週数別の胎児体重・身長

妊婦雑誌などで見かける子宮内胎児のイラストや、妊娠週数別の体重・身長が記載されたグラフなどは、何を元に描くでしょう?

 

ある解剖学の教科書に、妊婦を正中切断した実物標本の写真が載っています。何かの事情で死亡した妊婦をホルマリン漬けにして、製材所で使うような大きな切断機で、妊婦を胎児ごと半分にした標本です。超音波やMRIの画像がなかった時代、子宮内の胎児の位置を想像するためには、そのような解剖標本を元にした模式図が描かれました。(人体の不思議展などで実物標本を見た方もおられるかもしれません)

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子宮内胎児のイラスト

 

妊娠週数別に体重・身長が記載されたグラフは、死産した胎児のデータを元に作られます。死産届には体重・身長と、胎児がいつ死亡したかについて記載しますが、あまり正確とは言えません。当時は、妊娠中の胎児の標準発育を正しく調べるために、妊娠各週数ごとに、直前まで生きていた、できるだけきれいな状態の胎児が必要でした。

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妊娠週数と胎児発育

妊娠12週以降の妊娠中絶

妊娠を身体兆候から診断できるのは妊娠10週頃なので、妊娠検査薬や超音波検査がなかった時代には、妊娠中絶が妊娠12週を過ぎることも多く、危険を伴いました。現在はプロスタグランジン製剤のおかげで、かなり安全になりましたが、それでも、満期10か月の正常分娩よりもずっと難しいのです。

ハンセン病を扱った小説、松本清張「砂の器」の中でも、妊娠中の愛人が、闇の中絶手術により、自宅で失血死する話が出てきます。戦後、ベビーブームの陰で、闇中絶が横行し、公にならない若い女性の死亡も多く、社会問題でした。

 

ところで、超音波検査で見る妊娠12週の胎児は立派な形をしていますが、実物は、水に浮かぶクラゲくらいの柔らかさしかありません。プロスタグランジン製剤ができる前は、ほとんどの場合、胎児はバラバラになって出てきました。無傷できれいに生まれることは珍しかったのです。

ハンセン病患者は療養所に入所しており、公的な手術でした。当時の闇や市中医院の中絶手術に比べると、遙かに衛生的で丁寧な処置が行われており、きれいな胎児標本が残る条件も整っていました。

 

バラバラの破片になった中絶胎児が、生ゴミとして処分されていた時代に、きれいな形で生まれた胎児の標本を残した医師は、決して悪意で行ったのではない思います。

当時は、先天梅毒や先天結核のような母子感染を診察することもあり、ハンセン病の母子感染も完全否定はされておらず、将来、胎児標本が役に立つとも考えたでしょう。

 

追記)ハンセン病患者に対しては、政治的判断で国による謝罪が行われました。現在、訴訟となっている「障害者に対する強制不妊手術」は、それ以上に人権に対する配慮を欠いた施策でした。