現役医療者の視点

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もらい乳・輸血の昔話と、C型肝炎ウイルスの発見

2020年のノーベル医学生理学賞となったC型肝炎ウイルスの発見や、新型コロナ報道で有名になったPCR検査法の発明は、1980年代のことです。当時、血液や母乳を介して感染するウイルスや、発がんウイルスのメカニズムが次々と明らかとなり、医療のみならず、日常生活にも影響を及ぼしました。

それ以前は日常的に行われていた「もらい乳」や「輸血」について、昔話を紹介します。

 

今では、他人の母乳を与えることに抵抗があると思いますが、かつて「乳母」という言葉があったように、古来、母乳分泌に恵まれた女性が、母乳提供と同時に、育児を請け負うことは、立派な女性の職業の1つでした。天皇家や将軍家においても重用され、中には権力を握る女性も現れました。

grasp reflex and sucking reflex

把握反射と吸啜反射
  • 昔、夜の寝台列車。赤ちゃん連れのお母さん、母乳があまり出ないのか赤ちゃんが泣き止みません。それを知った別のお母さんが「私、ちょうどお乳が張って‥、いいかしら?」と、赤ちゃんを抱っこして通路に出て授乳させたら、赤ちゃんは泣き止んだ。他の乗客はカーテン越しに、じっとその顛末に聞き入り、温かい気持ちになりました。
  • 1980年代の中頃まで、もらい乳は珍しくなく、今では考えられませんが、産休明けで母乳のよく出る助産婦さんが、夜勤中にお乳が張ってくると、新生児室にやってきて、よく泣く子に母乳を与え、翌朝、そのことを母親に話すと、とても感謝されることはあっても、非難されるようなことはありませんでした。

 

輸血についても、日赤の血液センターが遠かったり、必要な血液型が在庫切れだったりで、献血による血液が手に入らないということがよくありました。

  • 1980年代の大学病院。緊急に輸血が必要になり、家族に「患者と同じ血液型の人を20人集めてください」とお願いすると、身内が少なく困った家族は、自衛隊駐屯地に連絡して、隊員にきてもらい血液採取させてもらいました。当時、謝礼として、家族が血液提供者に1万円を渡すのが相場だったので、自衛隊員にも渡そうとすると「これも任務の1つですから‥‥」「私の血液で元気になってくれれば‥‥」と受け取らずに帰っていきました。
  • 1980年頃、産科病院の院長は、お産での急な大量出血に備えて、血液型別の職員リストを作成させていました。職員は年1回、感染症検査をしているので比較的安全と考えられており、当時の産科医は、妊婦の血液型と、その日の勤務者の血液型をチェックしておき、万が一、緊急輸血が必要なら、日赤の血液が病院に到着するまでのつなぎとして、産科医自身を含め職員から採血して輸血するようなこともありました。
  • かつては、売血により血液を確保する民間の商業血液銀行がありました。母乳には血液銀行のような組織的ルートはありませんでしたが、母乳分泌が不十分な時に、地域の事情をよく知る助産婦が、母乳分泌に余裕がある人を紹介するようなことはありました。母乳の提供者にはお礼として、お米や野菜を届けたり、金銭が支払われたりということはありました。中には、母乳提供を仕事としている人もいました。

 

現在、以上のような行為は認められません。1980年代後半、B型肝炎ウイルス、HIVエイズウイルス、ATL成人T細胞白血病ウイルス、C型肝炎ウイルスなどの感染様式が認知され、時代は変わりました。

 

現在、献血・臍帯血バンクは、日本赤十字社により、有害事例が起きないように絶えず改善され、厳密な基準で管理されています。

母乳バンクも、ボランティアの母乳による「母乳バンク」の活動が始まっています。

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Informom(登録名)というタイトルで、妊娠・出産・産後についての情報発信を始めました。内容を充実させていきますのでご期待下さい。